篠島益夫の旅日記
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ヒマラヤ・カラコルム・パミールを越えて
黄葉のシルクロード(仏教伝来の道)ツアーの報告 |
2017 10/13〜27 |
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10月13日〜27日にてパキスタン北部から中パ国境を越えて中国ウイグル自治区ウルムチに至るシルクロードを旅してきました。玄奘三蔵が628年に建国間もない唐を出て、中央アジアを経由してインドに至り、17年にわたりナーランダ学院を始めインド各地で仏教研鑽と仏教経典の収集とに励み、644年に唐に帰還し、大唐西域記を著わすと共に没するまでの19年間を訳経に邁進しましたが、この玄奘の帰還ルートが私の今回のツアーコースとほぼ同じです。
こんな背景から、昨年春の「仏教が生まれた地インドの釈尊仏跡ツアー」に繋がる「仏教伝来の旅」として今回は参加しました。
この「仏教伝来の道」(これ以外にも多数のルートで中国の洛陽や西安に伝来しています)は同時にカラコルムハイウエイ(高速道では無く、日本の広域林道、県道よりもレベルが低く、私では危なくて運転できそうもない道ですが、パキスタン北部を南北に縦貫する基幹道はこの道しか無い状態で
インダス川とその上流部の支流に沿って、イスラマバードから国境のクンジュラブ峠h4733mを越えて中国のパミールからカシュガルに至る1300kmの一部を除く舗装道です、現在の中国とパキスタンの交易路です、過激派タリバンなどの出没の危険もあるので、殆どのコースや遺跡でライフル装備の警察車が先導し、ツアー客については護衛をしています)は初めは左にヒマラヤ西部のナンガパルパットh8126m山塊を、左にヒンズークシュ山脈を、三大山脈合流点を過ぎるとカラコルム山塊を左右に、パミールを過ぎて西域南道では左に崑崙山脈というコースであるため、好天が続いた事もあり山や氷河の眺めが続くという山好きの私には「仏教伝来の道」と共に「ヒマラヤ・カラコルム・崑崙山脈展望の道」でもありました。
その簡単な報告と写真を日程別に送らせて頂きますが、長くなるのでで関心のある方はお付き合いください。
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14日・イスラマバード〜ペシャム
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イスラマバードから多数の仏教遺跡が集積するガンダーラを経て、2011年にはアルカイダのウサマビンラディンが殺害されたとされるアボットバードの街を通過してペシャムに向かいました。
ガンダーラはBC6世紀からAC6世紀に渡り1000年間もインド・中央アジア交易路の拠点都市として栄え、釈尊滅後に中央アジアに広まった仏教も、その先に受容されていたゾロアスター教とともに栄えていた地です、玄奘もこの地を往路復路ともに立ち寄っていました。(往時はカイバル峠を越えたアフガンのジャララバードなどもガンダーラとされており、現在よりも広域な地域を指す)仏教史の一説では紀元前後〜1世紀半ばにこの地にクシャーン朝が成立したした時期に仏教の
阿弥陀信仰がこの地で盛んになったとされています。
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| <ガンダーラ・タキシラ博物館> |

釈尊の涅槃
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釈尊 ゾロアスター影響のコイン
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ストーパ
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ガンダーラ・シルカップ都市遺跡・寺院跡
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一時期クシャーン朝の都でもあったタキシラのタキシラ博物館、シルカップ都市遺跡、クシャーン朝2世紀のストーパ跡、僧院跡を訪れました。
この地に限った話ではありませんが西域南道(東トルキスタン地域)を含めて12世紀頃からのイスラム進攻により、多くの遺跡は破壊されて、原型をとどめるものは少ないものの、ガンダーラでは破壊を免れて今に残る仏教遺跡、ジャイナ教、ゾロアスター教遺跡があります。
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ガンダーラ・ジョウリアン僧院跡
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パキスタン北部に来て見ると美男美女が多く、目を奪われがちですが、ペシャムに向かう山路でも収穫したトウモロコシを焼くイケメンの父子の写真を添付しています。勿論、下車して砂と塩を入れた釜で焼く塩付、砂付の焼モロコシを食べました。
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ペシャムヘ途中・トウモロコシの砂焼き
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15日ペシャム〜チラス
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この日もカラコルムハイウエイを北上してチラスまで220kmをバスで向かいます。カラコルムハイウエイはパキスタンと中国の共同で建設され1978年に完成。インド用に拠点を得たい中国の政治姿勢が分ります。
この日は標高1200m以上の山間部走行で始まります、インダス川まで高さ400mもある崖に道はありますが、ガードレール無し、曲がりくねった山道を運転手は道幅全体を使って(センターラインなどは無い)上手く、対向車をかわします。
バスと言っても大型バスは交差出来ないので使えず、日本に旅館や幼稚園で使う1列+2列シートの小型バスで、ほとんどが日本からの中古車で、中には日本で使用されていた時代の塗装のままで旅館名が入ったものもありますが、先方では抵抗はないようです。
住民の移動は歩くか、バスですが、バスといっても大きなサイズでは具合悪いので、スズキの軽トラックの荷台にテント屋根を取り付けて向かい合わせに2列の長椅子シートをつけて片側6人、両側で12人乗り、車掌らしい人は後部車外にデッキがあります。
現地ではこの手のバスしかありませんが、これをバスとは言わず「スズキ」と呼んでいます。行き先ごとにバス停があり、学校の生徒から大人まで乗り込んで利用しています。インドでもスズキ車が多いのですが、パキスタンではスズキとトヨタで、日本からの中古が良い品質らしい。
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路端の岩壁・大トカゲ バスのスズキ
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途中のバタン村のインダス川を見下ろす展望所で写真休憩、道端には自生のタイマ草が勝手にいくらでも生えており、ヤギや羊も食べています。
ドライブイン(私の表現です)でトイレと昼食。カレーが多いがぶつ切りの鶏カレーと豆のダルカレーが定番でこれ以外はパキスタンでは少ない様で、鶏嫌いの私には悩ましい日が続来ます、パンでは無くナンが必ず出るので此れにカレーを塗って食べていました。
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バタン村・ガイドのサリーム氏・篠島・運転手シャー 自生のタイマソウ
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水はインダス川はじめ氷河の溶けた水が多いので日本人はダメで全部ペットボトルの購入水を使います。昼食後、シャティアールの岩絵に着きました。
岩絵はインダスの流れがゆるやかな渡河地点に多く、インダス沿いに25000箇所も有るとされていますが、道沿い、河沿いの立ち寄り易い場所が見所になって居る。かって、旅人が渡河待ちの間に掘ったとされており、動物、ストーパ、経文らしい古代文字が掘られています。
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_シャティアールの岩絵・ラクダ 仏塔
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鶴
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16日・チラス〜カリマバード
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この日はチラス郊外の岩絵から始まりました。昨日に比べてダイナミックに掘られている絵が目立ちました。仏教関係のストーパや仏像が目立ちます。此処で見つけたのは、その後もアチコチで見かけましたが、スイカの原種と思われる葉も実もスイカそっくりの小型のスイカでした。
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チラスの岩絵・仏塔
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仏像 スイカ原種
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愈々、今日は期待のヒマラヤ西部に位置するナンガパルバットh8126mに会える筈ですが、ヒマラヤ方向の山は雲が多く、バスが高度を上げても、アキラメムードになって来ました。しかし、ガイドのサリームさんが急にバスを止めて、あれが目当ての山だと案内してくれたものの、肉眼では問題無いが撮影では見えて来た時間や場所の関係で逆光でした。何とか、写真に納めましたが、此の先では、またも雲がヒマラヤ方向に掛かり、此処だけ1回のチャンスでした。
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チラス〜カリマバード・ヒマラヤ西部・ナンガパルバットh8126m展望
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バスが高度をあげて、ヒンズークシュ、ヒマラヤ西部、カラコルムの三大山脈の合流点に、大まかには、インダス本流の左岸がヒマラヤ、右岸はカラコルム、ギルギット川右岸はヒンズークシュ、左岸はカラコルムという感じです。これを地図で説明したモニュメントの写真を添付しています。
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ヒマラヤ・カラコルム・ヒンズークシュ三大山脈の合流点
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三大山脈合流点 古代のシルクロード
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ゆるやかに高度を上げてカラコルムの名峰ラカボシh7788mのビューポイントのレストランに、此処で昼食。ラカボシの氷河が目立っており、見上げる位置にガスに煙る頂上が見えていました。
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カラコルム・ラカボシの氷河
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この後、バスは高原を高度を少しずつあげ、トイレの無いトイレ休憩、此処では道路端の岸壁にザクロ石がいくらでも取れると言うので岸壁の土を手でこじって、石はいくらでも有りましたが、値打ちは無いでしょう。
4時過ぎにはカリマバードのフンザに到着、旧フンザハン国の王族が経営するダルバールホテルに。部屋からもウルタル等カラコルムの山々や黄葉したポプラの村が、さらに屋上が広い展望テラスになっており、黄昏迫るラカボシ、スパンテーク、スマイヤル、ウルタル、ディラン、レディスフインガー等、カラコルムの山々を飽きずに眺める事が出来ました。
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スパンテーク展望 h7027m ウルタル h7388m
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17日・カリマバード滞在・村散策と展望ポイント・その1
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早朝、夜明け前にジープでカラコルム展望ピークの有るドゥイカル村ヘ。ここでは夜明けからの360度に近いカラコルム展望を堪能して、ホテルに戻り朝食を済ませて再びジープでナガール村ヘ。
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ラカポシ
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ディラン スマイヤル
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フンザ展望・レヂィスフインガーh5985m・フンザピークh6270m
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マロバディング&シャルタン ハブザール
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フンザピークを背に
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フンザの子供達
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フンザ川とナガール川の合流点から黄葉のポプラや紅葉のアンズに染まるフンザの町、合流点で砂金採りで暮らす人々のテント村を見てナガール村ヘ。
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フンザ川&ギルイギット川合流点・砂金採テント
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ナガール村 ジープ車窓・ナガール村の道
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ディラン峰から流れるホーパル氷河
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カリマバードの此の地域はイスラムでも穏健なイスマイル派が主で、1日の祈りも簡単にして3回だけ生活優先らしい。モスクもドームの無い普通の建築様式(石積+土壁+木造の民家の構造)で女性は髪を隠さない人が多い。謂われはよく解らないが、スンニでもシーアでも無いという。
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アルチット村の女性
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カメラを向けても女性も子供も拒否せず、観光地では逆にポーズを取ってくれる。
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アルチット村の姉妹
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アルチット村の子供たち
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アルチット村・女性木工工房
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今回の旅は中国の西域南道を含めてイスラム地域で有るが、カリマバード程オープンな場所は珍しい、と思う。ナガール村の奥では、デイラン峰から流れ出るホーパル氷河を、昼食には、フンザ料理で、この地域らしい物、らしい人達との出会いが有った。
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昼食・フンザの伝統料理・ムリタ ダウド
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アルチット村では防御のため、複雑な城壁に囲まれた旧市街(村落)見物、此処でも気楽に撮影に応じてくれる子供たちや女性が目立った。此処は北部パキスタンで一番リラックス出来た所で、フンザのバルチット城見学後は、そこで解散。バザール等、夕暮れの村中を通って各自でホテルに戻った。それだけ此処は安全だと言う。
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ホテル屋上・フンザの村
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日本外務省のHPではフンザの有るギルギッドバルチスタン州はリスク高く、出掛けないようには書いており、パキスタン全体でも年間の日本人観光客は3000人以下という嫌われようで有る。フンザにはウルタルU峰で雪崩で遭難死した登山家である長谷川恒夫氏の遺志と夫人の努力で開校した長谷川スクールが有り、将来の大学設置も目指して居るとの事だが、訪問したので校長先生の英語スピーチを15分聞かされてしまった。
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川合流点・ウルタルh7388m&フンザ村
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幼稚園から高校生までの子供達はダンスを見せてくれたリ、たまに来る日本人には大サービスの歓迎をしてくれる様だ。この学校訪問は翌日18日のことです。ガイドのサリームさんが此処フンザ出身(旧王宮の直ぐ下に立派な白亜の屋敷があリ、此のツアー催行会社の西遊旅行社鰍フパキスタン法人サイア旅行社のイスラマバードに勤務して居る。給料はいくらかとも聞きにくいのでこの国では夫婦と子供3人で月にいくらで暮らせるか、聞いたら15000ルピー(日本円なら15000円余りか)でも充分やっていける、との事だった。
確かに何でも安い、男は皆出稼ぎで村には老人と妻と子供だけの家ばかりで子供の進学には金がかかるので 教師をしている奥さんと共に頑張っている様だ。
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18日・カリマバード〜ススト
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この日は長谷川スクール訪問から。スクールは1991年フンザのウルタルU峰h7388mで雪崩のため、仲間とともに遭難死した登山家長谷川恒男氏の遺志と夫人の尽力によりh2500mのフンザの村に設立され、今では幼稚園から高校までの当地の名門学校。
学校訪問後、2010年にフンザ川が地滑りにより塞がれて出来たアッタバード湖を経由して(今は中国によりトンネルが完成して交通障害は無い)、上部フンザ地区のグルミット村ワヒ族のゴジャール地区を訪問、女性のカーペット工房や旧市街(村落)をめぐり、カテドラル山群を眺める旧王族の経営するゲストハウスの庭で昼食。此処でも女性がよく働いて居るし、顔も隠さない。
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フンザ・長谷川スクール 上部フンザ・ゴジャール地区・ワヒ族の子供
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パスー村のパスー氷河やポプラの黄葉で染まるパスー村、カイバル村を眺めながら国境の町スストヘ、此処がカラコルムハイウエイのパキスタン側最後の町。
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上部フンザ・カテドラル高峰群を背に 上部フンザ・黄葉&カラコルムの山
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奇妙な事に今までの悪路が上部フンザを越えた辺りから広く、まともな舗装道路に変わって来た。岸壁には「中国・パキスタン友好の印」がデカデカと書かれて居た。その国や国民の判断になると思うが中国に経済援助や融資を求めたら、必ず中国の影響化におかれてしまいそうで、中国の経済援助、インフラ整備をネタに実質的支配を目指す共産党帝国主義戦略が見える様だ。
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19日・ススト〜国境クンジュラブ峠〜中国タシュクルガン
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この日はパキスタンから国境を越えて中国新疆ウイグル自治区タシュクルガンヘ向かいました。パキスタン側国境では何処で下りても、写真を取っても自由ですが、中国側は国境を出るとパミールを越えてタシュクルガンまでおりことも車窓からの写真も禁止というお達しだと言うのです。さらに国境のトイレは鍵が掛かっており、使う事もできず、寒さでモヨオスので、留められて居る建屋の外で男女とも始末した。
パキスタンのバスもガイドもスストを出る時にはサヨナラで、バスも酷い車両で高度がドンドン上がるので寒くなりますが、車に暖房ヒーターは有りません。出発前に厚着をして対策、途中のカラコルムの山岳地帯では雪が目立って来ました。
アイベックスの群れがフンザ川上流の谷筋に出て来て水を飲んでいました。国境では中国ゲートの直前でおりてパキスタン側の景色やゲート前で写真。
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フンザ川上流部の谷・アイベックス
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クンジュラブ峠国境h4733m パキスタン側
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h4733mのクンジュラブ峠の国境は風が強く荒涼として氷点下でした。中国がゲートを開けてくれると、間もなく倉庫の様な荷物検査場ヘ、ここで、スーツケースから手荷物、カメラまで全部の荷物出して中身をひとつずつ確認する。次ぎは男女別れて別室に連れて行かれて身体検査、股間から足裏までチェック。此れが終わって入国審査場ヘ、此処まで国境を中国に渡ってから3時間余り掛かった、此処で風邪を引き翌日も不調でした。 国境は中国人は簡単に通過していますが、敵国日本人は徹底的に仕事のフリをしてイジメます、そんな感じは否めません。全人代直前で、習近平のメンツをテロでつぶさないため、特別指示が出て居るのでは、という噂も有りました。
この国では共産党、警察、軍、役人が過大な権限を持って好き放題にやっている様で、観光客ヘのサービスという概念は有りません。
国境を漸く抜けて日暮れの迫るカラコルムを下り、タジク人のパオの目立つパミール高原に出て、夜9時過ぎにタシュクルガンの入国審査場へ。
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中国新疆ウイグル自治区・パミール高原
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此処では私でもスーツケースを引き揚げる事が無理な立派な建物の急階段を客が人海戦術で皆の荷物を引き揚げて入国審査場へ。人間工学的な公共施設設計の配慮も無い建物、それでも向側は手伝いはしない。
呆れ果てて頭に来たが、我慢するしか無い。またもや厳重な荷物検査と入国審査が終わり、審査場を出たら漸く現地ガイドの趙戒麗と名乗る若い女性ガイドと対面出来た。
スストを出てからタシュクルガンまでの国境越ではガイドも居らず、中年の添乗員だけ、この女性によると、ウイグル自治区では、こんなものですとの話でこの先が思いやられた。タシュクルガンは玄奘三蔵の立ち寄り記録の有るh4000m近いタジク人の町。
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20日・タシュクルガン〜カシュガル
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先ほど、タシュクルガンの標高をh4000m近いと記述していますが、地域の平均標高の事で市街ではh3100mです。この町の外れに有る古城の石頭城は1400年の歴史が有るとされてタジク人の都でした。
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タシュクルガン・早朝の石頭城h3100m&崑崙山脈
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この町から草原を北へ進んでカラクリ湖h3600mに出ます、タジキスタン国境に近い場所で、パキスタンのスストからのオンボロ国境バスは此処で別のバスに乗り換えて進みます。カラクリ湖は神秘な高原の湖で、ブルーの湖面を挟んで崑崙山脈の高峰であるコングール峰h7719mとムスタング・アタh7546mが有ります。見える山もカラコルムから崑崙山脈に変わって来ました。
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パミール・コングール峰 h7719m&カラクリ湖
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パミール・ムスタング・アタh7546m &カラクリ湖
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パミール高原・カラクリ湖h3600m&崑崙山脈
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そして、カシュガルへ、カシュガルは人口120万人のウイグル族主体のイスラムの拠点都市でもあり東トルキスタン分離運動などもあって中国当局との衝突もある。
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カシュガル・中国最大のモスク
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古くからシルクロードの要衝で西域北道と南道の接続点でもあり、玄奘三蔵はソロク国と言われたこの地は仏教が盛んだったと記述している。大きなエイティガールモスクは中国最大規模のモスクの一つで普段は3000人クルバン祭やローズ祭等イスラムのお祭りの時は10万人もの信者が訪れてモスク前の広場を埋めつくすそうだ。
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砂漠の三大植物・ヤナギハグミ(スナナツメ・グミ科) カシュガル・ガイドの趙嬢
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カシュガル旧市街の果物店 カシュガルの子供達
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21日・カシュガル〜ホータン
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今日は520kmのバス移動、大きなウイグル自治区に来たら、移動距離が増えました。道は平地が多いのでパキスタンよりも走りやすく、所によっては少ないものの一部高速道も有ります。警察の検問が各所で有り、その為旅行者にとっつては無用な時間が掛かります。場所に寄ってはまたもやパスポートや荷物検査を求めてきます、そのチェックに30分〜60分も掛かる事もでて、バスは進みません。
此の為、ホテル到着が深夜になり、途中のドライブインで夕食を済ませた日が2回も有りました。また、理由は不明だが、警察車両が先導するので、車の台数が増えるまで此処で待てという勝手な指示で時間を浪費し、必ず先導車に付いて行かねばならないので、この日も刃物工房の有るインジージャの見学を省略する等、途中の見所にも寄れない事態も有りました。中国警察の先導車はパキスタンの様な護送目的では無く、見せたく無い場所を通らせないなどの警戒が目的でした。
ガイドも交渉している筈ですが、効果無しで警察の指示を守るだけ、本当のところは解りません。外国人観光客に客という概念も無いのでしょう。欧米人観光客は見受けられませんでした、入域を拒否しているのかも。ホータンヘの途中でヤルカンドが有り、昼食をとりました。此処は西域南道のオアシス都市で16世紀〜17世紀のヤルカンドハン国の都で王宮も有りましたが、文化大革命で破壊されて、今は再建されて居る。
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ヤルカンド王宮
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食事はパキスタンに比べたら私にはマシで、やたらに多い野菜の油炒めには手が出ませんが、パキスタンの鶏の多さは此処では無くなり、今度は羊肉が多くなりました。北海道勤務時代に羊肉には慣れており、コレガ苦手の人のシシケバブ(羊肉の串焼き)も私に廻って来る始末、パスタのようなラグメンも抵抗無し、果物はブドウが産地なので何処でも出て、味は非常に美味い。ブドウは実った房をそのままにしておくと乾燥地帯なのでそのまま干しぶどうになるので、干しぶどうは何処の店でも土産に売っていた。
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昼食・ラグメン(パスタに似ル) 昼食・シシカバブ(羊肉の炭焼)
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ざくろも産地で道傍で多くの店を出してざくろだけを売っている、添乗の高柳さんがツアーの人数分を求めて食べたが、やたらに大きく、甘くて日本よりも美味しかった。ホータンに着いたのは夜10時過ぎ、ホータンは玉をホータン河で産出するのでこれを売る店が多く、ホータン玉はブランドだが、チョットしたものでも4万〜5万の値段を表示して居るし、偽物も多いというのでツアー仲間で買った人は無かった様だ。
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ヤルカンド・砂漠三大植物・タマリスク・ギリョウ(ギリョウ科) ヤルカンドの子供達
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ヤルカンド・路端のざくろ売
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玄奘がインドからの帰路に訪れた頃はホータンは仏教が隆盛で仏教寺院100、僧侶5000人がいたと大唐西域記にあります。11世紀に入るとカラハン朝の支配化になり、仏教関係は破壊を受けイスラム化しました。しかし、仏教の隆盛を見た地なので、ホータンからは華厳経典のサンスクリット本が発見されています。
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22日・ホータン滞在
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不安が的中して中国警察の指示で24日のミーラン遺跡訪問とチャルクリク宿泊が中止されて、コース変更して25日はチャリクリクからではなく、チェルチェンからタクラマカン砂漠を横断して西域北道のコルラヘ向かう事になった。全人代の影響を受けてチャリクリクの町の外人立入禁止及びチャリクリクからコルラへの国道218を閉鎖の為でした。
218国道は湖沼の多いオアシスを通る位置に有り、それも期待していたが、途中のロプノール砂漠は中国の核実験場が有り、周辺住民に問題が起きているとの情報が世界に流れて居るので、余計な外人に通って欲しく無いのだろう。今は砂漠に没している古代ゼン善国の王城跡やミーラン仏教遺跡をジープで廻る予定であり期待していたが。 この為、ホータンで2連泊となり、コース変更を余儀なくされて、今日は当初予定のホータンの予定に追加してホータン周辺を充実プランで訪れました。
マリクワット古城は城なのか仏教伽藍であっつたのか、ハッキリしていないが、貨幣、仏頭等が出土して居るが大きな遺跡が今は砂漠の中にドーンと有るだけ、砂漠との街や住居跡もあるがよく分らないらしい、白玉河に近い場所。
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ホータン・マリクワット古城
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白玉河は崑崙山脈に源を発してタリム川に合流する砂漠の中の川、玉の採集は素人では難しいし、簡単に有る訳でもないから、オート三輪で行き、河畔を歩いたダケ。ホータン博物館は1979年にオープン、9000点以上の文物を所蔵して居るが、1階のみ見学可でホータン近郊やニヤ仏教遺跡から出土したもの、ミイラ2体等が有った。
中国の博物館は何処ヘ行っても撮影禁止なので旅の記録に支障をきたす。此処は乾燥地帯なので特別の処理をしなくても砂漠に掘った穴の墓に入れて置くと簡単にミイラになると言う。ラワク仏教遺跡はコース変更による追加メニューの一つでホータンから北へ砂漠を50kmに位置してタクラマカン砂漠第ニ公路から入った。ホータン博物館は9000点以上の収蔵が有るとされていますが、1階のみが見学可能でホータン、ニヤからの出土品やミイラ2体が有りました。イギリスのスタインの発掘場所でも有り、ガンダーラ様式の仏像や漢代の銅銭、古文書等多数がア発掘されています。多くは大英博物館に所蔵されて居るでしょうが、1903年(明治36年)には本願寺派の大谷光瑞氏が率いる大谷探検隊もホータンを訪れて学術調査を行っています。3〜4世紀にはこの仏塔に多くの参拝者が有ったという記述も有る様だ。スタインは他にニヤ仏教遺跡、敦煌等も発掘して考古学的な仏教史アプローチをしている。ラワク遺跡の帰路にフタコブ駱駝の群れに出会った。
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ホータン・砂漠のラワット仏教寺院遺跡 砂漠のラクダ
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再び、ホータンに戻ってウイグル族女性のアトラス(ウイグル語・絞リ染めの絹織物)の工房見学、ウイグル農家の訪問も追加メニューの一つだった。ウイグル族女性のアトラス工場は繭から絹糸をつくり、染色して織物に仕上げる手間の掛かる原始的製法のスカーフ等、綺麗なものが出来ており、家内ヘの土産に買い求めました。
ウイグル族の農家訪問も大家族の生活に自分の昔を見る思いが湧きました。
昼食には今日はピラフに似た羊肉入りのポロ、なかなか美味かった。警察の障害によるバス移動の予想外の長時間の旅が続く中での中休みの1日と言える。
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絹織物アトラスの工場
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ホータン・ぶどう農家の祖父母と孫達 試食スル趙ガイド嬢
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ホータン・レストラン・昼食のポロ (ピラフに似ル)
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23日・ホータン〜ニヤ
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この日はホータンからニヤヘ300kmのバス移動、途中で世界で一番小さい仏教寺院(南北2.25m東西2.0m)とされるダムクに寄りました。紀元7世紀前後作られたと推定され、2000年3月に牛飼いが砂漠でタマリスクを掘っていて偶然見つけた。写真が撮れないので見せられないが、比較的に良好な保存状態だった。
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ホータン・砂漠の小仏寺遺跡 小仏寺博物館レイアウト
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夕方にニヤに到着してニヤ博物館を見ました、ニヤ遺跡で発見されたミイラや土器が展示されている。ニヤ仏教遺跡は民豊市街から北ヘ120kmのタクラマカン砂漠に有り、古代西域36ヶ国の一つだった精絶国の一部だったとされています。インドからの帰途、ニヤを訪れた玄奘が大唐西域記にニヤには大きな沢地に有って、葦がよく茂っている、と記述していますから、7世紀はじめの頃は水に恵まれて居た事は確かです。その後川筋の変化でニヤは消滅したと考えられています。
スタインは此処で仏塔、寺院、墓地、住居、食器、毛織物等を極めて良い状態では発掘していますから、イスラム進攻前にニヤは水が無くなり捨てられて砂漠に放置されたのでイスラムの破壊から免れたのかも。広さも南北25km、東西10kmに及ぶ大きな仏教遺跡です。
(遺跡に直接おもぬく事は出来ませんでしたが)
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ニヤ博物館
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ダムクの周辺には砂漠植物が多く見られたので、タマリスク、ベニヤナギ、葦、ラクダソウの写真を添付しています。
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砂漠の三大植物・タマリスク ベニヤナギ(タマリスクに寄生)
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砂漠の葦 砂漠のラクダソウ
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24日・ニヤ〜チェルチェン
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西域南道のバス旅も徐々に東へ移動して今日はチェルチンまでです。
胡楊(別名・ことかけやなぎ)
昨日ホータンからニヤヘ向かった辺りから、中央アジアの特有種で砂漠の三大植物の一つで、今の時期に黄葉が一番美しくなるという「胡楊・別名ことかけやなぎ」が徐々に姿を表して来ました。今日はその自生地を多く通り、見事な巨木の黄葉を眺める事が出来ました。パキスタンではポプラの黄葉、此処では胡楊の黄葉です。
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砂漠の三大植物・胡楊(コトカケヤナギ)
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胡楊の黄葉
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前途有望なタクラマカン砂漠の水・石油・農業
タクラマカン砂漠は20〜30m掘ると水が出るところも多いようで、この水で道路の両側の幅150〜100mに乾燥に強いタマリスク、ベニヤナギ、ラクダソウ等を植樹して道沿い4.8km毎に水ポンプ小屋が有り、冬を除く10ヶ月は夫婦が常住して植物を枯らさないように電力で大型ポンプを回し、植物にはパイピングで水をやり、道路を砂漠の流沙から守っていました。
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ゴビタン砂漠の農業用水路・車窓
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こうして砂漠横断道路をタクラマカンの中に2本通していました。タクラマカン砂漠は周囲を崑崙、天山等の高峰群で囲まれた盆地であるので、この山脈から流れ出る川は最終的にも砂漠以外に流れでること
が無く、砂漠に消えて、水は砂漠の地下に眠るという具合の様です。この砂漠の水脈の下には石油が埋蔵しており中国では満洲の大慶油田に次ぐ石油生産規模です。コルラ、クチャ等の西域北道の昔のハン国の町は今や石油精製、化学の町になっています。
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タリム砂漠公路起点
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砂漠農業
タクラマカン砂漠周辺のオアシスを繋ぐ砂礫地の砂漠ゴビタンは、崑崙、天山から引きこんだ用水が多く投資されてゴビタン砂漠が、綿花、ナツメ、麦等の生産地に変わりつつ有るように見受けられました。
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ウイグルの騒乱
こんなタクラマカン砂漠と崑崙、天山の山脈が埋蔵資源とともに中国に大きな富をもたらすのは明確で、こんなウイグル自治区での分離独立運動を政府が弾圧するのは理解出来ます。問題はその富の分配が地元のウイグル族に及ばず、後で来た漢族に奪われているから騒動が起き易いのでしょう。
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ニヤを出て先ず、タクラマカン砂漠横断の2本の内のタカラマカン砂漠第一公路の出口を確認後、チェルチェンに向かいました。その間、見事に黄葉した胡楊の林を道路沿いの砂漠に見つけては、これを探勝する繰り返しです。
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胡楊&羊達
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趙ガイド嬢
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胡楊の黄葉
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昼食のドライブインではポロとシシケバブでツアーの皆さんも羊肉に慣れて来たようです。店を出て気が着いたら、羊の生の毛皮が丸めて置いて有り、今朝の内にさばかれて、今我々が食べた羊のようでした。
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チェルチェン・ポロの盛付・昼食のドライブイン
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16:00にはチェルチェンに到着、博物館とそこの係員の誘導で1911年に裕福なウイグル人が第二夫人の為に建てた館であるトフラク荘園を、此処では庭に沢山の梨の木が有り実がたわわでした。此方の梨は日本にくらべて形も少し長く、味は非常に良かった。
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チェルチェン考古博物館 トフラク荘園
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チェルチェンの町から6kmの砂漠の中のサボンルク古墳群では墓室が上から覗き込む様に見学出来るようになっていて深さ3.4m長さ5.0m幅2.7mの砂に掘られた墓室の中に老若男女14人のミイラが仰向けに寝かされていた。
私には強い印象がありましたが、他でも述べた通り、乾燥地帯の 此処では遺体に特別な処理をしなくても穴の中に入れておくと、上手くミイラになるとの事で付近一体は今は砂漠に埋もれた大型の墓地だ、という事でした。ミイラですから、よい着物を着ていてもやはり、干からびた魚と同じ状態で身体が美しい訳ではありません。
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25日・チェルチェン〜コルラ
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今日も警察の強権指示に泣く
25日は当初予定が全人代絡みで警察からストップがかかり、コース変更でチェルチェンからコルラヘタクラマカン第一公道をコルラヘ、途中、流動砂漠の真ん中の塔中油田を通ります。このコースにも砂漠の中に胡楊の林がぼつぼつと有って目を愉しませてくれました。コース変更のため、走行距離が700kmを越える上にコルラに近ずいたら我々のバスだけが町に入るな(日本人は入るな)で迂回路を指示されて砂漠の農道のような明かりの無い凸凹道を走るも運転手が分岐でどちらに進むのか分らないという。深夜にたまにすれ違うトラックやトラクターに聞いて確認する始末、全く不安で寒くて真っ暗な砂漠で野トイレの連続となったが、漸く町らしい明かりが見えてホットした。
この日は到着遅れを予想して公路で早めの夕食をとり、コルラのホテルに着いたら翌日の午前1時だった。
添乗は10時には着きますと出発時には言っていたが700kmを普通道で休憩しながら、検問に邪魔されながらでは午前零時にはなるとは考えてはいたが、コルラの町通過を拒否されて凸凹道に回されたのは想定外でバスは朝9時から翌朝1時まで16時間かかった。
コルラは石油関連事業所があり、全人代の最中に外人を入れない事にしていたのだと思う。
翌朝のコルラ〜ウルムチ〜北京の国内便フライトに備えてスーツケースと手荷物を見直し、チェックに引っかから無いように作業したので、寝たのは午前2時だった、翌朝モーニングコールは6時半なので4時間ほどの睡眠という事。
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胡楊(別名・ことかけやなぎ)
分類はやなぎ科・やまならし属、樹高は最大15mほど、幹周り最大2.5m、陽光を好み、中央アジアの砂漠地帯の樹の王様的存在。
黄葉は色が日本の銀杏よりもずっとオレンジ色に近いずいた色合い、葉の形状はばらバラで場所ににより、同じ樹でもいろいろな葉形があり、銀杏に似た形から日本の柳のように細い形もあり、特定できない。他の仲間のポプラや柳同様に白い綿毛を持った種子が舞う現象も見られるとの事。胡楊を形容するウイグル族の言葉・・・・
「生まれて千年死せず、死して先年倒れず、倒れて千年朽ちず」
ウイグルでは最も美しい樹という意味を込めていますが、ウイグルは日本とは違い大型の樹木は胡楊しかないとも言えます。美しく、立派に砂漠に聳えているのは確かに見事です。
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タリム盆地・胡楊と私
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タリム盆地・胡楊の巨木
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26日・コルラ〜ウルムチ〜ペキン
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荷物検査等の不安が有るので7:30には弁当を持ってホテルを出る。荷物検査は事無く終了と思ったら、かなり高齢でバスの乗降りにも他のツアー参加者の支援を受けている男性が引っ掛かった。理由は杖を持っており、それが凶器になると言う理由だ、慌ててガイドが杖を別梱包して預け荷物にして事なきを得た。
往路成田発のイスラマバードだったので問題が無かったが中国で杖が問題になった。折り畳み式なら手荷物でもOKという、此の男性の杖が折り畳み式でないことに誰も気が気づかなかったが、杖が凶器なら、腕でも脚でも殴る、蹴るは出来る。この様な事例はバッテリーを預け荷物か手荷物かと同様に各国でマチマチ、国際基準を決めて欲しいものだ。
珍しく雨のコルラを定刻10;00には出発、ウルムチ国際空港には50分で着いた。機上から天山山脈を越えたが窓からボグタ峰h5445mも見えた。
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コルラ〜ウルムチ・機上のボグダ峰5445m遠望
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天山山脈 雨のウルムチ国際空港
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ウルムチでの待ち時間が長かったが、定刻でスモッグで曇る北京に到着、この旅も終わりに近ずいた。
中国で利用した空港はいずれも整備されて新しかったが、動線や設備配置にバリアフリーや人間工学的配慮がされて居らず、この辺りは日本の進み方は比較にならないほど上です。
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タリム盆地・胡楊と趙ガイド嬢 スモッグの北京国際空港
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ウルムチでガイド嬢の趙戒麗さんと別れたが、彼女は新疆大学で日本語を専攻したとの事でウイグル自治区の石河子生まれでウルムチに住む28歳の漢人で、結婚相手はウルムチ市役所勤めの共産党員で、今、彼が車で空港に迎えに来てくれて居ると嬉しそうだった。
木曜日でも空港に妻を迎えにくるのだから結婚相手はエリートなのか?趙さんは仕事がら日本にもよく来ていると言う、11月から12月はじめまでウルムチの富裕層4人を連れて仙台、高山、金沢、京都を1名100万円かけて豪華な旅行をするのだそうだ。貴方も豪勢だね、と私が言ったら、私の分は他の4名が負担するから私は只だそうだ。
その趙さんが以前、秋葉原駅でベンチに荷物を忘れた、気が付いて電車で戻ったら、そのベンチに荷物がそのまま有ったので助かった、日本はやはり凄い国だと感心したという。
しかし、彼女が付け加えて言うのは、今は中国人が日本にワンサカ押し掛けているので、今度日本で忘れたら、中国人が見つけて奪ってしまうので、気を付けなくてはならない、と本気で話していたが、笑ってしまうような話だ。
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中国事情
中国事情は旅行された方、報道も多いだけに自分なりにご理解されている事でしょう。私の近年の中国は僻地のアパチベット自治州(娘姑山h5080m登頂)や新疆ウイグル自治区の今回の西域南道(仏教伝来の道)で有り、中国の先進地域とは反対の少数民族エリアです。
大きな国だけに見る地域や体験により相当の差が有りそうです。
漢族が共産党の有力地位を独占して、共産主義政治体制で建前は自由市場経済という競争市場では極めて効率的な運営が出来る筈の国です。しかし、スタートから合衆国だった国とは違い、数千年の明らかな歴史を持つ多く民族を抱えた
国(ウイグル族だけでも900万人以上)の運営に、昔から、どの民族が支配民族になっても容易では無かった経験を持っているはずで有り、同じ漢字文化圏の要だった国の此れからの運営に高い関心を寄せています。
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油田開発と砂漠公路
かっての湖底が砂漠になったタクラマカンでは1950年代に油田開発が始まり、そのとき問題になったのは設備や人の輸送でした。そこで、砂漠に1993年開始、1995年には全長565kmのハイウエイを開通させたのです、ものすごいスピードで事業が進められたのです。日本では全く出来ない相談ですが、中国では出来るのです。現在は砂漠の中央部に南北のハイウエイが東西に1本ずつ、計2本の砂漠公路が有り、周辺部の都市に近い部分にはバイパスも多く出来ています。
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チェルチェン・タクラマカン流動砂漠
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カラマカン流動砂漠・塔中油田 タリム盆地・砂漠石油公路起点
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